2024年2月に開催したオンラインワークショップ「第1回Wikipedia編集会議」の書き起こし記事を公開します。イベントについてはこちらを参照してください。
第1回Wikipedia編集会議書き起こし記事
目次
1. 書き起こし記事
澁谷
それでは定刻を回りましたので、第1回のWikipedia編集会議と題するワークショップの方を始めていきたいと思います。本日モデレーターを務めます、社会情報学会東京大学所属の渋谷と申します。
このワークショップは、社会情報学会の方で今年度にシビックテックデザイン研究部会を設立しまして、その活動の一環として開催するものです。本日研究部会の方から3名――武蔵大学の庄司先生、香川短期大学の中俣先生、東京大学の小俣先生――そしてゲストスピーカーとして国際大学の渡辺先生にご参加いただいております。よろしければお1人ずつ簡単に一言自己紹介いただけるでしょうか。庄司先生からお願いいたします。
庄司
武蔵大学社会学部の庄司です。「情報社会学を研究テーマに研究分野にしてます」というふうにいつも言ってます。その中でも「地域情報化」と言いますけども、地域社会の中でデジタル技術や情報通信技術を活用していく取り組みに注目してきました。そういう意味では、すでに「地域情報化の歴史」自体がシビックテックの歴史と繋がってると考えています。ぜひその文脈にシビックテックの文脈を繋げる役割をしたいなというふうに思ってます。よろしくお願いします。
澁谷
よろしくお願いします。続きまして中俣先生お願いします
中俣
香川短期大学の中俣と申します、よろしくお願いいたします。
私自身の専攻は社会情報学であり、どちらかというと図書館情報学とか、ある意味で言えば「情報社会というのをどう捉えていくか」みたいな議論していました。偶然、四国において「Wikipediaの地域に記事を増やしていこう」といった企画にも関わったりも関わっていたものですから、今回ちょっとご協力させていただければと思っております。庄司先生がおっしゃったように、ぜひこの社会情報学会の一つの研究会としても、シビックテックやこのWikipedia部門には共通項があるんですけど、さらに意識的に取り組んで結びつけるお手伝いをしたいと思っている次第です。よろしくお願いいたします。
澁谷
よろしくお願いいたします。小俣先生お願いいたします
小俣
よろしくお願いします小俣と申します。
私は現在はたまたま大学にいるんですけど、どちというと「シビックテックのプレイヤー」サイドでございまして、長年――もう10年以上ですね――シビックテック的な活動をしています。なので、そういった側面からちょっと何か話せればいいかなと思っています。
その活動の中で実は「Wikipedia の編集」っていうのも結構長年やっていてですね、Wikipediaは情報っていうところではすごく大切なところであったりします。日本では最近やられている方がいっぱいいらっしゃるんですけど、また違った側面からもそういったところが考えられればなと思ってます。よろしくお願いします。
澁谷
よろしくお願いいたします。渡辺先生お願いいたします。
渡辺先生
国際大学GLOCOMの渡辺です。専門領域は僕もちょっと庄司さんと近くて「情報社会論」と「デジタル系の政策の研究」をしているっていうふうによく説明しています。今回呼んでいただいたのは、多分僕が「オープン化」と呼ばれるようないろいろな運動を対象に、研究者として観察してきたり研究してきたりこともありますし、あとはプレーヤーとしてもいろいろなオープン化の推進運動みたいなものに関わってきたので「そういったところの知見を提供せよ」ということかなと思って参りました。よろしくお願いします。
澁谷
よろしくお願いいたします。私は一番新参者なのでむしろ今日のこのワークショップを通じていろいろ勉強させてもらうという立場で参加しております。
私自身が「シビックテック」というのを初めて知ったのは、おそらく東日本大震災でした。地元が宮城なのですが、東日本大震災のときにマッピングとかも含め、いわゆる今でいうシビックテックみたいな活動が被災地の中で結構あったりして、その辺りから関心を持ち始めました。アカデミアとしては、「ヒューマンコンピュータインタラクション」というコンピュータサイエンスの一分野があるんですけども、コンピュータと人間のインタラクションを考えると、そこでは結構その海外ではシビックテックに関していろんな議論がされ、実証研究がなされています。私個人の東日本大震災をきっかけにした関心とアカデミアの取り組み、市民参加とか民主主義から考えるテックっていうところに関心に加え、最近ではアカデミア的視点から例えばヨーロッパやアメリカの研究者とシビックテックのケーススタディをしたり、台湾を事例に実証研究したり、ということをしております。ですのでこの辺の「いわゆるシビックテック前史」の部分は本当に興味津々です。今日はいろいろな話を聞けるのも大変楽しみにしておりますのでどうぞよろしくお願いいたします。
庄司
シビックテックとWikipediaの組み合わせについてひとこと加えさせていただきたいと思います。オープンデータのムーブメントがこの10年間で徐々に高まってくる中で、渡辺さんと「学術的業績づくりをオープンにできないか」という相談をしていました。その試みの中で「Wikipediaの情報を充実させる」ということも貢献ではないかと考えました。Wikipediaは、「ちゃんと根拠となる文献があって、それを適切な手法で参照しそれを明示しながら書かなければいけない」という結構しっかりしたツールなわけです。これはアカデミックな作法とほぼ同じだと思うんですけど、それに則ってWikipediaを編集するということはアカデミックなオープン化に貢献するだろうと思うんです。
という前提となる議論があって、「オープンデータについてWikipediaに情報を整理しよう」ということを当時、議論していたんです。そのことを、このシビックテック研究を始めようというときに思い出しました。そして(日本語の)Wikipediaを確認したところ「シビックテック」という項目があまり情報充実してなかったんです。もっともっと書けることいっぱいあるよねと思ったんです。研究や文献はいっぱい世の中にあるので、それをちゃんと参照しながらですね、ここをハブにしてそういういろんな情報に行けるように整備していくことができたら、これはアカデミックな活動としても意義があるんじゃないかと考えて提案させていただきました。
澁谷
Wikipediaの状況についてそして、現在のその日本語のシビックテックの項目について簡単にご紹介いただけるでしょうか?
小俣
今現在、日本語の「シビックテック」っという項目は存在はしています。けれども実はこの日本のページって、去年(2023年)の11月18日に立ち上がったばかりで内容がそんなに充実していないページなんです。英語等の他言語は「シビックテクノロジー(Civic technology)」という項目ですでに項目立ってたんですけれども、日本ではいよいよやっとやっとというか、11月にできたばかりです。残念ながらまだできたばかりということもあり、その英語版の「Civic technology」の翻訳を日本の部分を抜き出してつけた程度の項目しかないというところがあります。なのでぜひ「日本から見たシビックテックの項目としてどう書いていくか」っていうところをちょっと充実していければなと思っています。あと個人的に思うのは、英語のページの方は世界中のシビックテックの活動の内容が書かれているので、そういった内容も入れていって、かつあとは日本独自のやっぱり内容も書いていくと情報発信としてすごくいいのかなっていうことですね。やっぱり日本の場合には、どうしても「日本語って壁」があるんです。日本語で書いただけでも、今だと世界中に発信の一端になったりするので、そういった意味でも、日本のシビックテックとしてはこういったページを充実していければなというのは思ってます。結局、まだまだこれこれからっていう段階ですね。
澁谷
ありがとうございます。今だと(Civic technologyのページがあるのが)13言語ですか。英語以外だと、項目とかも違ったりするんですよね。
小俣
各言語ごとに項目も内容も違います。
澁谷
ありがとうございます。大きな質問ではあるんですけれどもWikipediaの先ほどシビックテックでのシビックテクノロジーと海外ではなっているということもありましたけども、日本だとどちからかというと「シビックテック」という言葉の方がよく使われてるように思います。そういう意味からもここではシビックテックを使いたいと思います。シビックテックをWikipedia書くにあたって、シビックテックの定義は何なのかっていうのはやっぱり避けては通れないと思います。いろいろ議論があると思うんですが、「先生方が考えるシビックテックに関連する取り組み」あるいは「シビックテックの定義」でも結構ので、先生方にお伺いしていきたいと思います。最初に庄司先生からシビックテックに関してお考えをお話くださるでしょうか?
庄司
自分の研究テーマは地域情報化が柱ですと、自己紹介で申し上げました。その話とも多分繋がってくるんですけれども、「地域情報化」って言ったときに、以前から界隈で言われているのは「情報技術を使って地域社会をどうこうするっていうこと全てを地域情報化というのではない」ということ。それは何かというとつまり、「人と人が協力して」っていう要素が加わってくるんですよね。「誰かが勝手に機械を設置したら何かいいこと起こりました」とか「政府が何々を設置したら、こんなことが起こりました」とかいうだけではなく、「人々がソーシャルメディアとか使ってコミュニケーションして協力して地域社会に何か働きかける」っていうのを地域情報化と呼ぶのだ、という議論があります。その話と近いと思うんです。「シビック」っていうのは「市民、市民社会」っていうことを意味するわけで、もちろん1人で実際は活動してるっていう人もいるとは思うんですけども、でもやっぱり「1人の人が自分のために何かやる」っていうのはシビックテックとはちょっと言い難い。やっぱり「複数の人々が身の回りの社会・地域社会に対して働きかける」のがシビックテックの特徴だろうと思うんですね。1人ではなく仲間を作っている誰か人と人が協力してその社会に働きかける市民社会を作っていく。そうした技術を通じた活動という意味合いなんじゃないかと私は思います。こんな感じでいかがでしょうか?
澁谷
ありがとうございます。まさに要点をついてシビックテックの一番コアなところをまとめてくださったような気がして、とても私には納得できる定義でした。
続きまして中俣先生、いかがでしょうか?
中俣
今、庄司先生が概要的にもばっちりの事をおっしゃっていただけたので、加えるところがあるとすれば、「一方でこの日本においての市民社会がどうあったか」っていうこともすごくかかってる部分もあるかなという気もしています。
やっぱり基本的には1980年代ぐらいになると思うんですけど「市民として科学技術をどう捉え、かつ実際目の前にある科学的な問題をどう捉えるか」みたいな、どちらかというと「理念的な問題として技術論を市民の視点からどう見るか」みたいな議論があったんです。そこから具体的に自分たちの手で技術的なものに携われるようになったのではもう少し後のフェーズのような気がするんですね。さらに「社会運動の一つとして市民っていうのはどうあるべきか」っていうことを取り組む活動はあったんですが、そこにもやはり技術的なもので活用できる活動できる人っていうのも、なかなか実際少なかったところもあったのも事実だと思います。なので、おそらく今回のお話でも争点になると思うんですけど、理念としての市民的な立場からの技術的な問題へのアプローチっていうことが、日本社会の中でやっぱり90年代以降、特にある種のウェブ環境も含めた環境変化の中で、急激に実践としても立ち上がっていったみたいな状況を踏まえてシビックテックテクノロジーの問題を市民という「シビック、市民社会」そういったものから捉え直すみたいなことも、今回の記事化の中でも論点の一つにはなるのかなと思いながらお話を聞いていたところでした。私の方からは以上です。
澁谷
ありがとうございます。続きまして小俣さんいかがでしょうか?
小俣
今回、少し昔の資料とか明後日もっかい振り替え時自分自身で振り返ってみました。最近よく「シビックテックって何ですか」と言うと「市民がテクノロジーを活用して社会課題を解決する取り組み」ってよく言ってるんですけども、実は私が最初にシビックテックをやり始めたときに言ってたことはちょっとこの言葉とは違っていて、そのときに出た言葉は、まず「市民の自治とオープンなテクノロジーやデータを通じて地域課題の解決を目指しましょう」ということなんです。要はそこにオープンなテクノロジーやデータを通じてやるんだよということ。あともう一つ、課題解決や大規模な社会変革を起こすためにはよく使った言葉は「コレクティブインパクト」です。これはビジネスとか政治行政とか、そういう団体の垣根を越えて、みんなでそういった意味で社会にインパクトを加える必要があるんだよねっていうことをすごく言っていました。なので、結構そういった意味では多分、私の中で根っこにあるシビックテックってそういうところがあります。あんまり最近こういったふうには、あんまりシビックテックっていう人が少なくなっちゃったなとは思ってます。
庄司
オープンなデータやテクノロジーってところがポイントなわけですか?
小俣
そのときにはちょうどあのそういうプロレタリーな「あの時あるだけが持ってるものを使ってやる」のではなくて、「広くみんなのものを持ち寄ってやる」っていうところが一つのポイントなのかなと。そのときによく言っていたのは、例えば一つの企業だったり団体が閉じてやるには多分限界があるので、そこはみんなそういった意味ではそういうトランスペアレンシーて言葉もよく使っていましたけどもそういったところが多分ポイントになるってことで、そういったとこでオープンなっていうところが入ってきてるんだと思います。
庄司
ちょっと広げさせていただきたいんすけど、オープンなデータやテクノロジーを使うっていう話は、「白か黒か」っていうはっきりわかれるとは限らないと思うんすよね。グレーゾーンがあるし、一部使うとかもありますすね。実際にはそういう例もあるとは思うんです。例えば今、スマートシティとかの議論の中で、結構企業丸抱えのスマートシティみたいなものとかもあるわけです。企業が「お金も出して投資をするから、企業のためにデータくれ」みたいなスマートシティです。でもそういうのは「シビックテック度が薄い」ということになるかなと。このケースは「オープンじゃないテクノロジーを使って囲い込む」わけです。市民生活に関わることをやるし社会課題解決をするんだと言っていても、ちょっとそれはオープンではなくクローズドに近いですね、というイメージかなと思ったんですよ
小俣
多分そこをクローズにすることによって、多分幅が狭くなるっていう考えがあると思ってます。一つのそういう団体なりができる領域ができることは多分そんなに大きくないので。社会から見たらそこはみんなでやっぱりそういう協力し合ってたわけじゃなくて、そういう情報を出し合ってうまく使っていって、言葉に対してインパクトが出てくるよねっていうことを考えないといけないなと思っていたりします。
澁谷
私からも。小俣さん「コレクティブインパクト」とおっしゃっていただきましたが、もう少しご説明いただいてもよろしいでしょうか?
小俣
「コレクティブ」なので要は集合知ですね。集合知があった結果、インパクトっていうか……何かが解決してくっていうところから出てきてるんだと思っています。そういった意味でコレクティブインパクトって言葉を昔は結構使ってきた。要は、先ほどと同じそういう「オープンなマインド」とか「オープンのテクノロジー」「オープンのデータ」というのは同じだと思う。そういったところで「やっぱり集合知でみんなインパクト出しましょう」っていうところがきてるので、こういう言葉を作っていたと思いますただ細かくいろんな条件はどうですかっていうところも結構あると思うんです。大きな概念として使っている言葉ですね。
澁谷
なるほど、ありがとうございます。「インパクト」の部分には個人的に関心があって、この「シビックテックのインパクト」をどう捉えるかが、アカデミア側としてもっとできることもあるんじゃないかというふうにも考えております。こちらはまた議論させていただければ幸いです。
では渡辺先生からもちょっとこのシビックテックに関してお考えをお聞かせいただけるでしょうか?
渡辺先生
はい。今までいろいろ論点が出てるので何かリアクション的なものになっちゃいますが。まず英語圏の文献をちょこちょこ見た感じでの印象なんですけど――Wikipediaの記事もちょっとそういところがあると思うんですけど――日本ではシビックテックと言ったときに、ある種の活動の名称であったりとか、運動の名称だったりとして使われることが多いのに対して、英語のcivic tech は、テクノロジーの一種だというふうに使われてることは結構あるなという印象があります。「なんちゃらテック」って今いっぱいあると思うんですけど、そういうものの一種として、シビック系のテクノロジーっていうテクノロジーの名称として使う人たち、あるいはテクノロジーっていうとちょっと狭すぎるとしたら、それをもうちょっと広げてテクノロジーを活用したサービスとか、プロダクトの総称みたいな感じで使う人がいます。例えば、EdTechっていう教育系のための技術のことを指す用語と並列のような、そんな言葉として使ってるものは結構あるなというのがまず一つの印象です。
それから、これは面白いなと思って聞いてたんですけど、「オープン化とどういう関係があるか」っていうのは僕も気になっていました。①技術を活用する運動を起こす人たちが結構よくあるパターンとしてはやっぱり技術者の人が何か世直しに関わりたい②そうすると技術の開発をしたい③でも1人で丸抱えしてやるのは当然大変なので、みんなで力を合わせていろいろ開発しようじゃないか――っていう流れのところからオープンソース的なアプローチを採用するっていうのは非常にある種合理的だと思うんですね。ただ、そういう合理性だけからオープン化が来てるというわけではやっぱりなくて、何というか、ある種の思想的な選択というか、文化というか思想というか、そういうものとしてのオープン性を帯びているっていう印象も僕も持っていますし、例えば、日本でシビックテックって言ったとき僕は一番念頭に置くのは、やっぱり「Code for」なんですけど、この活動も「何か得になるから」という理由でオープンソースを採用しているという説明は必ずしもしなくて、やっぱり思想的なものも入ってるのかなっていう印象を持ちました。
ちょっとどういう順番で話したら一番混乱しにくいかが難しすぎてちょっと解けないんですけど、「シビック」と「テック」っていう二つのコンポーネントから市民として活動するということは、典型的には、民主主義社会に参画するっていう、その際にテクノロジーというのもまた広い言葉なので比較的先端的なテクノロジーを使う。この辺りがシビックテックの一番の中核かなっていうのが僕のイメージなんです。 そういうものを考えたときに、その中にはですね、先ほど中俣先生がおっしゃっていたような技術の市民による統治みたいな、例えばそれは最近であれば、もちろん原発もそうですけどAIについても言われていますし、バイオ系のものについても言われることがあると思うんですが、そういった技術に関する統治っていうテーマの一環として、ITとかデジタル技術に対しても、統治を利かせる。その一番良い手段の一つがオープンソース化なのであるという考え方である気がしていている。でも一方では、「世直しをしたいから技術使いたいよね、世直しをするのに技術は使えるし効率よくやりたいよね」っていうところと、「そもそもこの世直しに使う技術自体をちゃんと市民がコントロールできる技術として、ガバナンスを効かせなきゃいけないよね」っていう、二つのアジェンダが、人のレベルとかプロジェクトのレベルで見ると活動としては重なってるんだけど、目標として見ると何かわかれてるところもあるみたいな。一方は政府とかに向かっていてもう一方は技術のあり方に向かってみたいな、そんなところがあるかなと思っています。
よく似たでもまだちょっと違う論点に先ほど小俣さんが、「トランスペアレンシーのイシューがある」っていうふうにおっしゃってましたけど、このシビックテックの源流みたいなものを考えるときに一つ、ここが一番古いのかなと思うものの一つはやっぱり「透明性」の活動で、例えばアメリカだと多分60年代には既に政治資金の透明化みたいなものを求める活動とかがあって日本でも自治体のレベルだと情報公開条例とかできたのが80年代ですね。そうすると、多分「オープンソース」と今広く呼ばれるものの元祖であるフリーソフトウェア運動がアメリカで生まれたのとほぼ同じ頃、もう日本で情報公開をやってるわけですね。というところからしてもトランスペアレンシーの方が歴史は長いなって印象があります。なのでこれは技術ではなくて情報のガバナンスっていうものを考えたときにも、市民がちゃんとガバナンスを効かせるっていうことがいいんではないかっていうことを考えた人たちが、これはオープンソースの運動が広がるよりも先に多分あっただろうっていうのが僕の感触ですね。 それで、そういったところから考えていくとトランスペアレンシー系のイシューもそうだし、あとはメディアに対する対抗のムーブメントとして日本だとミニコミって呼ばれるものがあります。ああいうものも、ある種の情報(のガバナンスに関する運動です。)どっちかっていうとマスメディアが仮想ライバルであって、国家ではないんですけどーー情報公開条例が典型的に考えるような国家に対するものとか、公的セクターに対するものではないんですけどーーそういったプライベートセクターのメディアに対する対抗としてのミニコミとか、コミュニティメディアみたいなものが、これは情報のガバナンスの文脈で、結構これも昔からあるなっていう感じはしますね。 その辺りからさらにもうちょっと周辺にどんなものがあるかっていうのを考えると、ーーなんか僕はこれ結論があるというよりも、何かシビックテックについて考えて、ちょっといろいろよく知ってるよっていう人だったら聞いてみたいって思ってることを今並べてる感じなんですけどーーここでシビックと呼んでいるものそもそもの「市民社会」という言葉が歴史的にいかに多様で、ある種一貫性がないかということ。シビックテックの行く先っていうのが、民主主義なのかっていうのは、僕は典型的にはそこが中核なんじゃないかと思うんですけど、どこまで広がるものなのかっていうのが、これいろいろな見方がありそうだなと思っています。庄司さんが地域の問題解決課題解決っていう言葉をさっき使ってたと思うんですけど、そういうのもありうるし、政治に関しても、制度化された、投票とか政策の決定とかそういった制度化された政治とその周りの制度だけではなくて、いわゆる「ミクロ政治学」っていうか、アイデンティティの政治だったりとか、自分の日々の暮らしの中で経験する権力関係の修正だったりとか、そういうところにも及ぶ活動……もうちょっとわかりやすく言えばフェミニズムのために、ミニコミを使うっていう日本には結構あの、昔からやってる方がいたように思うんですけど、あれはシビックテックの源流の一つなのかな、どうなのかなっていうのはそういうところからもちょっと気になったことでもあります。
庄司
メディアの民主化みたいな話ですね。電波免許を持ってないと情報発信できなかったのが、通信技術やインターネットによって個人でも発信できるようなりましたとか、あの新聞紙にもやっぱりそれなりの機械が必要だったものが、もっと小規模でもできるようなりましたみたいなメディアの民主化・大衆化みたいな話もあると思いますし、それだったらこの話もしなきゃなと思ったのは「技術」ですね。テクノロジーといえば重厚長大な技術だという時代から、いわゆる情報技術中心にだんだんシフトしてきました。コンピュータ自体も、昔はもう部屋いっぱいみたいなものだったものが、どんどんそのパーソナルなコンピュータになっていきました。そうやって私たち1人1人が技術を扱えるようになってきたなってきた中で、DIYというか自分たちで何か作ってみようという文化がだんだん盛り上がってたわけです。そういう流れもこれは押さえておく必要があるんじゃないかと思いました。
渡辺先生
ありがとうございます。あとは「シビックテック」と呼ばれるものの中には、それ自体はオープンソースじゃないんだけど、クラウドソーシングのツールとして使われるようなサービスだったりプラットフォームだったりっていうのも挙がることが結構あるかなって思うんですよね。そうすると、広くはそういう、何ていうか、ある特定少数の資本なり、権力なりを持っている影響力の大きい主体ではなくて、不特定多数の人が社会を統治するとか、民主主義の影響力を行使するとか、狭くは広くは社会の諸諸課題に自分たちの手で介入していくんだというのがシビックテックの源流の一般的な特徴みたいなところはあるのかなっていうふうには思いました。
中俣
私からもよろしいでしょうか? お話にもあったんですけれどまずはある種の市民主義――多分紹介されていた上村先生の本の話にも関わるんですけど――、日本でもやっぱり市民っていうのをどう見ていったらいいだろうかって研究がございます。例えば、社会学のジャンルなんですけど日本社会学会の2005年のときの研究事業で、故・道場さん――社会運動の歴史を研究され、市民主義の日本におけるその伝播の仕方っていうのを、研究されてる方―のような方もいらっしゃったんですが、一言で言うとこのシビックってこと自体が言葉上だけで言いますとやっぱりこうキビタスという、ある種の特権層の人たちを表す言葉から来てるんですね。だから、ある意味、条件がある人が何かの課題を解決するみたいな意味合いはあるんですけど、ただそういった理念を広げつつ、かつ社会運動の中で自分たちもできる関わりしろのあるようなものに参加したいっていう人たちにもこの市民主義っていうのは日本の場合発展の中でですね、対応してきたっていう経緯があるんじゃないかと思うんです。
そういう方々が直接シビックテックって言葉はなかったけれども、何かオルタナティブなことをするときの一つの手がかりとして、例えば手近なコンピュータが得意な方が参画するとかですね、そういったことは多分まさに前史としてありえたことであって、実際にあのアメリカのケースの場合だと、社会課題みたいなものにですね、ある意味コンピュータに長けた人たちが何らかの関わりを持ったりするみたいなこともあったりしたと思うんですけど、そういったものが日本においても実際にはそのシビックテックの前史なものだろうと思いますし、一方で言うとある意味よく言われる「欠如主義」って言葉があって、市民自体がもうちょっと科学リテラシーや技術に対するリテラシー持ってたら、いろんなデマだとか誤解が減るんじゃないかみたいな言い方をされることがあるんですけど、まさに市民サイドの側でいろいろとテクノロジーを使ってきて前向きな活動をされてた人たちは、ある意味その欠如主義を埋めるようなことを活動の中で取り組んでいたような人たちだと思うんです。だから、そういった点に着目しながら渡辺先生のおっしゃり方で言いますと結局「オープン的なもの、データ的なもの」ですとか、我々が今共有しているシビックテック的なものの中に、オルタナティブとして当時まで行かなくてもですね、ある種のその我々の生活自身のあり方を、カウンターというかあの問いただす一つのも、実践が繰り広げられる場合もあるだろうなと思いますし、そうした場合にはやっぱり総体として、ある種のガバナンス的なものも、より発展的になるってこともあり得るのかなと思った次第でした。ちょっと感想めいちゃいましたけど、以上です。
澁谷
ありがとうございます。渡辺先生もしよろしければ、今オープン化のところ、民主主義のところもお話してくださいましたけれども、メイカーズムーブメントとかあるいはそれ以降のデジタル分野の政策形成みたいなところもかなり取り組んでいらっしゃいますがそのあたりとの関わりについて何か補足ございますか。
渡辺先生
そうですね。これ、ますます話が拡散しちゃうのがちょっと怖いんですけど、オープン化の広がりっていうのを、僕は一つには技術的な――ある種のさっきの庄司さんが言ってくれたような――重厚長大なものが、パーソナルなレベルに技術が下りてくるみたいな、廉価版のものがどんどん高性能になってくるみたいなそういう変化とともに起こってくるような、技術の不特定多数による活用ですね――それこそソーシャルメディアでもいいですしYouTubeを使って面白いビデオ作るみたいなコンテンツの領域でもいいんですけれども、そういうものがいわゆるそのコンテンツを作るのとは全然違う方向にも、いろいろ展開してるっていうのを僕は研究上の関心もあっていろいろ見てきたし、関わる機会があったんですが、――Makersムーブメントとかあとオープンデザインっていう言い方をされることもあるんですけど、これはそういうもののモノづくり版なんですよね。この「モノづくり」っていう言葉がまた何て言うか、ちょっと幅が広すぎて、僕もうまく簡潔に言える気がしないんですけど、例えば電子回路基板を作るみたいなこともやるし、それから、そこにセンサーをくっつけて、ちょっとしたIoT機器を作るみたいなこともやるし。さっきちょっと出たスマートシティみたいな文脈で言うと、バルセロナではまさにそういったスマートシチズンセンサーキットって言ってたかな、あの民間の……企業じゃなく「市民として活動してる人たち」が、そういったものを開発して活用して、自分たちで自分たちの都市の、例えば騒音だとか、大気汚染だとかの環境のセンシングをしてそのデータをプラットフォームで共有して、町の自治に役立てようみたいなそんな運動を起こしたりすることが例えばあったわけです。あるいは、日本だと311の後にセーフキャストという活動が盛り上がって、まさに似たような形で、ガイガーカウンターを(1からではもちろんないわけですけど)ある程度のところから先はもう自分たちで作ろうというようなことをやりながら設計情報を公開していったり、ノウハウを共有していったりということをやっていった。今言ったような例は行き先は結局情報収集ですけど、そうではない、例えば生活を良くするために物を作るとか、直すとか、何か作り変えるみたいなものもあったりとか、それからちょっと他の、名称を忘れちゃったんですけど、都市開発とか、まち作り、まち作りとかアーバンデザインの分野では、やっぱりそういうデジタルもの作り技術を使って、ちょっとしたストリートファーニチャーとかを市民が勝手に作ることもできるしそれによって空間をちょっと、それまで、なんていうか言ってみれば、為政者側がデザインしたものとは別の形に作り変えて自分たちならではの空間を作るとか自分たちのための空間を取り戻すんだっていうようなゲリラ的な動きをするようなこともあるんですね。もの作りというのは、なのですごく幅が広い。もうちょっと何か医学的な方向に飛び火することもあって、持病を持っている人が、何かのその持病をうまくコントロールするためのデバイスを作る目的ーーよく知られているところだと血中のグルコースを監視するデバイスなんかをアメリカだと、DIYでみんなが(知恵を)持ち寄って作って、それを患者さん同士が情報交換をして自分たちで作って使うみたいな世界がどうもあるらしいんですけど、ーーこれはユーザーイノベーションという言葉を当ててもいいかもしれなでいすけど、そういったものがいろいろなところで起こっているのがモノづくり領域です。それとは別に、そもそも、こういった技術とはちょっと関係なく関係があるとした技術を活用してということになると思うんです。
特にIT分野を僕が見ているからかもしれないですけれども、市民が参加していろいろな政策決定をするべきなんじゃないかっていう考え方は、広がってきてる感じがある。それは言葉としてはマルチステークホルダープロセスとかマルチステークホルダー主義っていう言葉が、特にここ20年ぐらいの間に増えてきたなっていう印象を持っていまして、それは先ほど中俣先生がおっしゃってくださったような科学技術のガバナンスの文脈も背負っている言葉でもあるし、それだけではなくて、本当のIT系のところで言うとインターネットのガバナンス自体がずっとマルチステークホルダー主義というのをとってきたことから、それが広がってきて、他の分野でも例えばプライバシーとか、パーソナルデータのガバナンスにおいてもそういったマルチステークホルダー主義が重要なんではないかと言われたりAIに関しても同じようなことが言われたりということが起こってきているなっていう印象を持ってるんですね。
そういった形である種の市民参加が広く、単にそのデジタル技術の活用の場面に限らず、あるいはデジタル技術のガバナンスに限らず、いろんなところにあるっていうのも広く見ると、シビックテックの、これは源流というかシビックテックが置かれてる、幅広いコンテストの一種の捉え方として物が言えるかなっていう感じはしました。っていうことで何かお答えになりましたでしょうか?
澁谷
ありがとうございます。先生方いかがでしょう。
庄司
もう今日は話題を広げる日だと思うので、さらに加えると日本におけるインターネットの歴史は「阪神淡路大震災が一つの大きなきっかけでした」っていうストーリーがありますよね。災害になるとテクノロジーを活用して何とかしようっていう動きが大きく盛り上がるということが何度か繰り返されてきていて、それとそのテクノロジー活用の話と同時に重要なのがNPO的な活動ですね。阪神淡路大震災の年がNPO活動元年みたいな言われ方をすると思うんですけど、NPO法ができてですね、ああいう非営利な活動というのをやりやすくなっていったっていう歴史がある。東日本大震災でもそういうボランティア活動はたくさん生まれて、その一部はやっぱりこういうテクノロジーを活用した活動であってっていうことがありました。その辺特に日本の文脈を語る上では、その「災害とボランティア活動」みたい手^まも、多分あわせて考えるべきなんでしょう。Wikipediaを充実させていくんだったら項目立てたいなって思いますね。
渡辺先生
ちょっとコメントしていいですか、僕もこのシビックテックを考える上で、あの阪神淡路大震災の後、僕が思い出したのは「ボランティア元年」という言い方だったんですけど、それは結構、意味のあるポイントだったのかなっていう気がしたところがあって。それは庄司さんとはちょっと違うかもしれないんすけど、政府と市民の関わり方として、シビックテックに結構特徴的だと思ったのはコラボレーションなんです。政府に対して、異議申し立てるっていう活動ってのはすごくたくさんあって、それ自体も、なんていうか、シビックテックの中に含めるかどうかってのはいろいろな考え方あると思うんですけど、「Code for」とかが僕の中では中心的なイメージなんすけどやっぱり地方の行政の人たちとか、それに限らず、政府とコラボレーションしたいんだという方向性を持ってるってのは結構特徴的だなと思っていてます。それと異議申し立てと、そうじゃなくてもうちょっと、あの、自分たちでガバナンスを利かせるからもう政府はいらないっていう……何て言うかリバタリアン的というかあるいは自治的な動きと、いろいろな動きがあるとは思うんですけど、コラボレーションっていうのは割と、レアなんじゃないかなっていう感じがして、それがシビックテックに特徴的かもしれないなと思ったんです。さかのぼっていくと日本では、あそこなんじゃないか。やっぱり災害のときっていうのは、喧嘩してる場合じゃないので、とりあえずみんなでやれることをやろうっていうふうにまとまるわけですよね。そのときに当然技術があれば技術も使う、日本でもそういうふうにネットワークを活用したりしたわけですけど情報ネットワークを受けさしたわけですけどそういうのがやっぱあそこにはあったんじゃないかなと思いました。
庄司
すいません、それボランティア元年でしたね95年は。それで思い出したのは僕96年に大学入学しているんですけど、その頃にとある外国人の先生がおっしゃってたのが、まさにその阪神淡路でボランティア活動が盛んになって、「日本もこういう活動が盛んになってきたんだ」みたいなことを学生が喜んで言うと、「いやいや日本にはそういう市民活動市民社会の歴史すごく優れた歴史があるじゃないか」って言われて。「何ですかそれは」って訊いたら、「公害に対する市民運動だ。日本の消費者の運動は注目すべきものがあるのだ」とおっしゃってて、なるほどそれを、この話はそこにも繋がるのかみたいなことを当時思ったのを覚えてます。ただ、公害に対する市民運動っていうのやっぱりどちらかというと「誰かに戦いに行く」っていうイメージが強いと思うんですよね。私もその地域情報化の活動でインターネット使ったことやりましょうみたいなことを行政に2000年代初頭頃に行ったりすると、「要求は何ですか」みたいな感じですごい行政に身構えられてしまった経験ってあります。けど、渡辺さんおっしゃったように、「いやいやそうじゃなくて一緒にやりましょうコラボレーションしましょう」っていう気運が出てきたのはもしかするとボランティア元年とかNPO法とかあの辺からかなっていう気がしました。
渡辺先生
うん。確かにNPO法を作るときにも、それを日本語で何と表現するかで揉めて、特定市民活動みたいな言葉を使いかけたときに、いやそれはあまりにも「政治にモノを言う」みたいな感じがして、駄目だっていう、政府内で不評を買ったと言うような話をどっかで聞いたような記憶もあります。
中俣
よろしいですかね。すいません非営利とかね、非政府的なっていう言い方のニュアンスあるいはNPOじゃなくてNGOとあえて言いたいみたいな方も国内で出したりしたっていうことを今思い出しました。あとあの庄司先生のお話で思うのがですね、例えば、ふとね、40数年前のアルヴィン=トフラーの「第3の波」って本が翻訳されて、そのときは実はパラパラと子供ながら見た記憶があるんだけども全く子供だったからっていうこともあるしピンと来なかったことがあるんですけど、対抗運動としてやってた時代っていうのはまさしくトフラーの言う条件がまだまだ未整備で、市民の皆さん方の目の前に技術的に対応するっていう素材がそこまで流通してたのかっていうとなかなかそれは難しい。その中でなおかつその公害という大きな問題にどうとらえなきゃいけないかっていう中での対抗的な形っていう選択をされていった部分もあるんじゃないかなと思うんですね。ところが、現在はまさに40数年前のトフラーが言ったような、ある意味市民が何か繋ぎ合わせて、技術的な一つのものをクリエイションしていくっていうことが、40年前に比べれば圧倒的にできるわけですし、ましてこのスマートフォンなんていうものを、インターネットとコンピューターハイブリッドしたようなものを普通に誰しもが、もう10代でも持てるような時代状況になった中で、改めてシビックテック的な延長線上として過去の歴史も踏まえて前史とそうでないさらに付け加えたものっていうのを見れる地点まで今来ているのかっていう……。逆に言うとその70年代の人たちがシビックテックっていう視点でゴールを設定できないような状況もあったんだろうなと思ったりするわけですよね。だから、そういった意味でいうと時代状況に合わせてこれはシビックテック的なある種のそのマインドとしても捉えられるけれども、シビックテックとは源流――とは言えないかもだけどそのマインド的にはそういう部分もある――みたいなものの、なんていうかな、リソースと言えばいいかそういったものも今だからこそ逆にあえて整理して記事化もできる時代状況入ったのかなっていう印象を、2人のお話から聞いて思って止めましたという話でございます。以上です。
小俣
私はどっちかとエンジニア目線なのでちょっと違ったところで。元々私はソフトウェアエンジニアって何十年もやってるんですけど、元々はそういった意味ではこんなオープンソースみたいな文化が昔の組み込みと言われた時代は全くなくなくて、全部丸抱えしてたような時代がずっとあって。ちょうどインターネットとかそういうUNIXが出てきた時代にそういった意味でフリーソフトウェアという概念が出てきて、そういったものを使って新しいソフトを作って、それって、とどのつまりっていうソフトウェアも物作りもそうなんですけど、全部自分で作るってことはほとんどなくて、誰かが何かを作ったものを組み合わせて作るっていうものでやってきた、例えばそういってみたら昔で言うとそういうCコンパイラがあるからこそそういった意味でプログラムができるんでそのCコンパイラを作った人がいるからこそできるんであるとかそういう話があって、実はそれがどんどんそういった意味でフリーソフトウェアとかから受注オープンソースはそういったものになっていった。なのでマインドとしてはそういった全てのあれじゃないけどそういったマインドがあるそういう人たちも実はそういった意味では、エンジニアってソフトウェアのエンジニアの業界であってやっぱ協力し合ったり、やっぱりその知恵を出し合ったりっていうそういった文化がちょっと元々あったのかなと思います。そういった意味ではLinuxとかそういうとこになってきたとこあるところで、実はその活動の中に社会とはあんまり繋がっていなかった(って本当はできてやっていくことはそういった面白みあるんだけど)、それが社会にどうインパクトがあるって全く考えていないところがあったのが、そこでそういった意味では社会と(どっから始まったのかわかんないけど)日本の場合にはそういった意味で災害ってことをきっかけによってそういう人たちと出会ったっていうところが多分そういったところでシビックテック的なところは生まれてきたんだろうなとも思っています。特にアメリカでもやっぱそんな感じのなんかちょっと何か著文献読んだら、そういったのがそういった始まりであるとするっていうふうな何かに書いてあったんですけども、逆にそういった意味でそういうテクノロジーが結構役に立つんだなってことが見せられることによって、そういったお互いがよって何かできるかなっていうところが生まれてきたところが、そういった意味では今のシビックテックに繋がってきてるような気がしています。
澁谷
ありがとうございます。庄司先生も、もしかしたらもう既にある程度お話されてるかもしれませんけども地域情報化とか、渡辺先生からも関連する取り組みについてお話くださいましたけれども、何かもうちょっと広げても、もしよければ結構ですけれども関連するところでこのWikipediaの骨組みを考える上で重要となるものなどがありましたら、ぜひご共有ください。
庄司
ただ日本のインターネットコミュニティと言っていいのか、日本においては、ただそうは言ってもWeb2.0とか言ってた頃には、そんなにネット上でやっている活動と、社会の本当の本流のその政治経済っていうのは、あんまり近くなかった。どっちかというと「サブカルが盛り上がって面白いね」っていうのであって、その政治経済の本当にその中「この技術を使ってその変わっていくぞ」みたいな機運があったかっていうと、あんまりなかったと記憶しています。その一つの証拠はこれまた別の研究会で、最近お話しましたけれども、ウェブ進化論っていうのを書いた梅田望夫もちおさんが2009年のインタビューで、そういう趣旨のことを言ってます。「日本のネットってサブカルばっかりで、政治経済のいわゆる上の人・偉い人みたいなのは全然関わってないですよね、社会変えるところには変わってないですよね」みたいな内容でちょっと炎上したんですけど、でもそれはその通りだよなと私は当時思ってた。
あとですね、それこそ私は2000年代の前半からネットコミュニティや地域SNSの研究をやって、地域を良くしようという人たちをずっとウォッチしてきたわけですけども、2000年代初頭の地域SNSでは、政治や政策に関する話題を出すのは禁止ですという規約を掲げていたところが結構ありました。今は、そういう政府に対する批判的な言論がSNS上に溢れかえってますけど、そういうことを書く人がいると地域SNS運営事務局に通報が行くんですよ。「何か政治的なこと書いてます(排除してほしい)」みたいなイメージです。しばらくはそんな状況だったので、その日本のネット文化は多分、民主党政権が生まれる頃、オバマが誕生し、何かツイッターで政治を語っていいんだっていう機運がが出てきた2008年あたりまでは、その後~現在の政治を語る雰囲気とは違うという印象です。
澁谷
ありがとうございます。一旦本来の目的のWikipediaにどう落とし込むかっていうところを少し議論させていただきたいんですけども、そういう観点からはぜひですね、中俣先生がこのあたりが詳しいと思います。ある種固まりきった定義とかがないこの項目とかをまとめようとしたときにどんなことが可能性としてあるかっていうところについて、少しお話いただけますか。
中俣
すごく有意義な議論ではあったんですけどやはり落とし込みは必要かなと思いますよね。だから、やはり一つ歴史カテゴリーとして前史をどう抑えるかっていう庄司先生がお話しいただいた地域情報化という観点からの、歴史をどう描くかっていうことがあるでしょうし、私なんかもちょっと言及させていただいたその、いわゆる市民主義の延長として捉えられる側面もないかっていうこともあるでしょうし、あとその単純に技術っていうあの情報技術都市として見たときの、例えばオープンソース的なものですとか下地になったような文化的な状況を前身として、という大体三つぐらいの議論を今展開してきたのかなと思うんです。
それぞれをひとまずは一本化してまとめて付け加えていくっていう作業もあるでしょうし、英語版の使える部分っていうのは使っていったらいいと思うので、その辺りを照らし合わせながら一つ骨太的な骨子みたいなものを考えていくっていうのはあるでしょうね。それとあとやっぱり日本の歴史の独自性っていうところの階層がなかったら、はっきり言って日本語版ではちょっと意味がなかったりするだろうと思いますし、逆にそれを英語版等の海外の方にもなんていうかな、ある意味共有するようなことが必要にもなってくると思って。その海外の……例えば英語版に、あの日本のシビックテックの歴史っていうのはどうなのみたいなことを、ある程度日本語版の水準に沿うような形で、英語版等でも反映して、あとは他にもいろんな外国語版にも対応はあるんでしょうけど一つはやっぱり英語版で日本語版のシビックテックの記事がどのぐらいできてるのかっていうのをちょっと英語版にも反映させたいかなというのがあるというところですかね。
あとは、ちょっと今言った、どちらかというとその空中戦的な部分も大事なんですけど、下地の部分でやっぱり参照可能なレファレンス参考文献をしっかりと、Wikipediaの編集ルールに基づいて書き込んでいく必要があるので、その資料蒐集っていうことになろうかなと思いますね。論文だけじゃなくてWebベースのものでもいいんですけれどもやはりその参照可能なものをその記事の中で記録していくっていうそういった意味で市民の回復の取り組みでもあると思うんで、そういった部分をしっかりと、Wikipediaでもそういうガイドライン示して作ってるわけですから、ぱ共有していかないといけないだろうなと今までのお話聞いたところでそんなところです。
庄司
これはもう僕はWikipediaそのものにそんなに詳しくないので、どちらかというも中俣先生、小俣先生渡辺先生教えてくださいって感じなんですけど、あの例えば人について載せるときには、やっぱりこういう情報入ってるべきだよねってありますよね。あるいは何か作品について載せるときにはこういう情報を載せるべきだよね、というのがありますよね。こういう何て言うんでしょう、概念というか市民運動の分野なのか学術分野なのかなんかわかんないこういうものを載せるときには、何を載せるとか項目立てるといいとか、こういう情報あった方がいいとか、何かありますか。
中俣
逆にありがたいことにある種いま庄司先生がおっしゃったジャンルに関して参照文献はあるんじゃないかなと私は思うんですよね。だから記事化は特に問題は感じてないんですけど、それをその百科事典という形で表現しなきゃいけないとか。
その辺りのちょっと工夫が必要かなとかあるいはそのカテゴリー分けをすごくシンプルに挙げる必要があるかなとかですね、そういったことは思ったりします。逆にあの、いいのか悪いのかデータが多いWikipedia上の記事ってやっぱりあってそれは素晴らしい努力である反面、百科事典として見たとき、どうなのかなって思うときもあるんですよね、項目の大きさが大きすぎるなと。そのあたりは割とシビックテックの現状の日本語版キーっていうのはちょっとある意味で言うと分量はまだあった方がいいなと思う反面、あまりにも長大すぎるっていうのはちょっと当初から考えなくてもいいのかな。
そこから、ひとまずはさっきの3分類ぐらいから文献を集めて構築するっていうとこから始めるのも悪くはないのかなと思います。あとはやっぱり英語版のシビックテックの記事がある程度参考にはなる感じがするので、はい。その辺りは実はあんまりそんなに心配はしてないです。
庄司
誰かを批判したいというわけじゃないんですけど「オープンデータ」という、私にとってとても重要な項目を見るとですね、何か中途半端なんですよ。概要説明はいいんですけれども、何かいろんな国の政府が取り組んでるよって言っていろんな国の政府のポータルサイトへのリンクが貼ってあるんですけど、なんでしょうね20個ぐらいですかね、中途半端に、各国政府のポータルへのリンクが貼ってあるし、あと歴史みたいなことがザーッと書いてあっていいんですけど途中で止まっちゃって、なんか勿体ない。中途半端なので、何かこういう項目があった方がいいとかこういう項目作っても何かあまり役に立たないかもとか、そういうことを教えていただきたいです。百科事典として何が必要かみたいなことをちょっと考える必要があるのではないかなと思ったりはしました。
中俣
私のイメージでって言ってしまうと、今庄司先生が思ったような、あのご紹介いただいたものはある意味素材っていう側面が強いなと思って。やっぱり文章で、最低でも五、六行ぐらいの説明がないと1項目にはならないだろうなと思ってはいます。だから、長いものはさらに細分化されるでしょうし、やっぱり百科事典としての文章の表現っていうかね、体裁がやっぱり望まれると思うし逆にあまりにもその素材だけしかない項目記事っていうのは、参照もされなくなるだろうなっていう、ちょっと気もいたしますね。
澁谷
すると、前史の方はもうむしろ何か本とかにしていただいて、何か別でしっかり深掘りしてたら本になりそうだなと思ってお伺いしました。本にしてもらえばWikipediaに書きやすいですよね。それをギュッと凝縮してからそういうリファレンスを作ってアカデミア側カメラでなくてもいいかもしれないですけども、積み上げていくっていうのも、別の作業としては一方で必要ということで、
小俣
なんだかそういった意味では、そういう文章を作っていくっていうのもそういった意味では大切なやっぱ作業で、それがあるからこそ、それを参照する上で意味があるんじゃないですかね。だからそういった意味ではWikipediaって百科事典なのである程度実はカテゴリーとかテンプレートがある程度ちょっと割りにフリーな状態ですかあったりするので、そこに沿った方が百科事典としては確かに読みやすいっていうところがよくよく定番的にこういう項目は、こういうジャンルに関してこういう項目あるよなってところがあると読みやすいっていうところがあるのかなってとこあるんですけど、そこはそれとしてその中でどうやって工夫して読んでもらうかっていうところがあると思います。長くなれば実はそういうような記事の分割提案をして分割するっていうのも多分ある。ということもあります。
渡辺先生
また質問になっちゃって申し訳ないんすけど、まずWikipedia独自研究は基本受け付けないっていうことになってると思うので、「前史はこれだよね」っていう独自の考えをそこに盛り込むっていうのは、「何を根拠に?」って言われるかなってのはまず心配してたんですね。ただ、ちょっとこの場をどう捉えるかっていうのがちょっと気になっていたところがあります。先ほど中俣先生が、いや別に本とか論文じゃなくてもいい、っていうふうにおっしゃってましたけど、この学会の下に位置する研究会でこんな議論の結果大体こんなコンセンサスが出たっていうのがなんか、記録としてはこれ多分YouTubeの上にビデオは残ると思うんですけど、そしたら、それを参照して書くことは、いいのかな?みたいな。でも、これなんかWikipedia編集会議とかタイトルがついていてちょっとなんかトリッキーというか、自作自演っぽいのであんまり褒められたプラクティスではないような気がするんです。もっと悪意を持ってですね何かWikipedia上のこの概念と、何かイメージをこっち側に寄せたいからわざわざ研究会1回開いて専門家で、そういうのをしてくれる人だけ集めて、そこを何か参照すればそれで通るからそれをさっさと通しちゃうみたいなことやらせやられちゃうとWikipediaとしては、大変なことになるので、褒められたプラクティスではないとは思ったんです。どうですかねそういう理解で合ってますつまりこの、この会議の、例えば最後にですね皆さん今日のコンセンサスはこんなところですかねってわかりやすいパートがあってですね、そこを誰でも参照できるようにしとくと、それを参照して後で庄司さんなりがこう記述するっていうのがありなのかっていう。
中俣
基本的にWikipediaに関してその本人とか関係者が書くっていうのは避けるべき。
庄司
だからお行儀が悪いわけですね。
中俣
信頼性を失いかねない部分にはなりますよね。うん。だから先ほど小俣さんがちょっとおっしゃってくださったんですけど、ある意味でパブリッシュされたもの、おかつそのWikipedia以外のメディアというか媒体で表現されたものであればなおいいんだけど、ただここでやってることはある意味で言うと、関係者と当事者の集まりなわけですから、ここの集まりの議論っていうのではなく、ちゃんとリファレンシャルなものが他にあって自分たちが言いたいことやりたいことっていうのはここにちゃんと示された上で我々もやってますみたいな感じが、あの検証できるものをしていかないといけなくて。
庄司
本当に議論そのまま参照してWikipediaを書くっていうことはないかなっていう気がしますね。ここで、シビックテックについて「やっぱ押さえるべき文献これだよね」みたいなものをみんなで合意して、「やっぱこれは参照として書かれるべきだ」みたいなことが作れたらいいなと思います。ここで何か新しい合意があるんだったらそれを1回どっかにパブリッシュして、っていう道を経た方がいいですよね。
中俣
そういう形で、それもありまして多分小俣さんも補足で今おっしゃりかけたのかもですけど、Wikipediaの記事にはノートという機能があるわけですよね。そこで記事提案をするってこともできますから、うん。だからWikipediaの中のルールで詰めていくっていうこともできるでしょうし、あと、Wikipediaの外側での資料準備ってことも、また同時にできるかなっていう。
小俣
Wikipedia記事で言うとよいろんなやっぱりあの意見があったり、反対意見があるものはできるだけの載せるっていうそういうポリシーがあって、要は偏った意見ばかりじゃなくて、でもそれは、片やこういう意見があります意見がありますこういう意見があるっていうのをのっけるっていうのは第三者が載っけてあげるっていうのがあるというフェアだよねって話をしているところがある。なので例えば今日の意見をどっかのそういった面では何かどっかに記録をして、それを読んだ人が他の、他ともやっぱりそういうマッシュアップしてそれを記事として書いていくっていうところが目指した理想のところなのかなと思っています。
庄司
そうですねそのためにも、何かシビックテックを論じたものを僕らは増やすっていう作業をまず頑張らなきゃいけない。
小俣
そうですだから私が持ってるアカデミアの仕事はまずそれだと思ってるんです。うん。そういったやっぱり記録をするものを作っていくことが最初のアカデミアの仕事かなと思ってます。
中俣
なんでしょうね。キビタスっていうこと等であるんであれば、我々自身があの道普請っていうのがね、信州の方にあるらしいんですけど、我々自身が見つけていかなきゃいけないっていう、ことなんだろうなと思っておるところですね。はい。
澁谷
なるほど。確かに文献特に今日のお話なんかを体系的にどこかで読めるかっていったらまず今の段階で読めないので、我々のこの学会の研究部会として活動している意義としてはやっぱりこういうのをどっかにちゃんと少しずつ出して、オープンな形でディスカッションできる土台を提供していくことなのかなというふうに理解いたしました。
小俣
そうですね。結構ウィキペディアタウンとかとかやってて神社や和尚さんがものすごくいろんな話をしてくれるんです。でもそれって、フェアに全く書けないですよね。結局、口伝だったり和尚さんの意見だったりでしかないから。それを掲載するにはどうすればいいですかというと「本を書いてください。文献になったらばそれをもし必要だったらそれを載せられるので」という。ただ口伝で話してるだけでOKでも、そういった意味で和尚さんもそういった意味で、本当にいろんな話を知っていらっしゃるところがあるので、そういったところでやっぱり何かしら残すってとこは必要なのかなとおもいます。
澁谷
それを例えば和尚さんの話で言うと、本とかあとは記事とかでもいいわけですね?
例えばインタビューをしたメディア地元メディアの結果など?
小俣
第三者が参照できるのが条件ですね、
澁谷
わかりましたか。ありがとうございます。
小俣
結構Web記事が嫌がられるのは、第三者が見れるかっていうとWeb記事ってどんどんなくなってっちゃったりあと時間ごとにどんどん内容が変わってっちゃうので、そこをそこを参照してるのが結構やっぱり後から誰もそれを確認ができないっていうところがちょっとつらいところだったりしますよね。
澁谷
なるほど。
小俣
そうですね。結構そういう記事って実は公的なところの、やっぱりページだけ多くてなくなるものが多いんですよね。
澁谷
そうですね。何か論文書くときにもやっぱりニュース記事って参照したくなるんですけどURL消えちゃうんで、難しいなと思ってます。
元々予定していた時間が迫りつつあるんですが、ここで次回以降のワークショップの開催に向けて、Wikipediaの編集について今後話し合う必要があると思われる項目や、あるいはシビックテックに関して改めてここだけ押さえてほしいということでも結構ですが、先生方からそれぞれいただければと思います。
渡辺先生からいかがでしょうか?
渡辺先生
わかりました。定義の他に、やっぱりシビックテックを論じるときに、多くの人が引き合いに出すのは、こういった技術であるとかサービスであるとか、現象であるみたいな、その実例を文献から拾うというのは一つ大きく、やりやすいところでいいんじゃないかなと思いました。あとは定義については、ちょっとまだあの皆さんの議論をしながらそういえば、こないだこういうの見たなとか思い出してたものんなんですけど、トロント大でつい最近書かれた博士論文で、シビックテックの定義に触れている博士論文というのが、オンラインで読めるものがあるので、そういうところから拾っていくとどういう定義があるのか、バリエーションを一応レビューしてるって書いてあるので、そういうところを拾っていくのといいのかなっていうのを思いました。
それから、あとは、先ほど庄司さんがとっ散らかってるっていう印象を持つようなパターンに陥っちゃうかもしれないですけど、関連する人物とか組織とか、サービスっていうのを項目として書くと、そこにいろんな人がちょっとこれもあるよねあれもあるよねって持ち寄りやすいんですよね。悪い意味では、雑多になっちゃうんですけど。そうするといろんな人たちがかかわかりやすくはなるかなっていう。善し悪しかもしれない。あとは政策の文脈で、シビックテックを正面から言葉を使ったものってあったかどうかわかんないすけど、例えば(台湾の)gov0みたいなものは多分シビックテックを語る上ではみんな語るんじゃないか。あるいは、もっと昔だとUshahidi、選挙監視ツールですね。日本だと311のときも確か使ってたと思います。sinsai.infoとして。そういう、ーーあれ、ちょっと何を言おうとしてるか忘れちゃいましたけどあの、そういう、作るツールとか典型例とかを書けると、集められるといいんではないかなと思いましたってことかな。
澁谷
ありがとうございます。そうしましたら小俣さんいかがでしょう。
小俣
はいそうですね私はどっちかっていうと、その書くときに皆さんが参加して書きやすいような、ちょっとそういう何か道筋だてがあるといいなと思っていますそれが骨子なのかどういう形なのかわかんないすけど、特にそういった意味でこういったものっていうのWikipediaを書き慣れた人といえばあんまり書いたことない人がいかにやっぱりこれに参加してシビックテック活動してる人たちがかけるっていう、なんかそんなような何かガイドラインじゃないすけど、そんなものができるといいなと思っています。
結構あの、この今シビックテックのWikipedia記事もあるんですけど私あのちょうどあのコードジャパンがやった東京都の感染者のストップCOVIDがあるんですけど私あれプログラムを一切書いてなくてこんとき何やってたかっていうと、一生懸命ハックMDで書いてこうやって書いてくださいって書いてくださいってことをずっとやってたので、結構そういうのあると読んでくれて、そういうのを参考にして書いてくれる人がいらっしゃったりするので、そういう人たちがそういった意味ではこういった情報を残すっていう行為をやっていただくような形になればいいのかなと思ってます。
澁谷
ありがとうございますハックMDをずっと書いてくださっていたのは知りませんでした。ありがとうございます続きまして中俣先生お願いいたします。
中俣
ちょうど渡辺先生と小俣先生とがもう、私ちょっと言わんとするやつと言ってくださってる感じなんですけど、例えば我々の議題の中身をそのまんま参照元として記事を書くっていうことはちょっとお行儀がよくない行為ではあるんですが、ただ、例えば今日の議論だって、結局何らかの文献を基に我々も発言してるはずだと思うんですね。もちろんそれを一つのオリジナルとして何か、リリースはしてないかもしれませんが、何らかのレファレンスに基づいて我々も喋ってるはずで、そういう文献リスト的なものっていうのはおそらくは多少集中して時間を取れれば、各自が用意できるものになろうかなと思うんですよね。そういうものを、ある種の小俣さんが言ってくださった準備室的なものとして、シビックテックを考える際にこういう文献がありますっていうリストとして公表したり紹介したりするってことはすぐにでもできることだろうと思うんです。だからそういった形での、なんていうんでしょうね、アーカイブって観点でいえばWikipedia自体が一つのアーカイブではあるんですけど、そのためのアーカイブを作るっていうことをやってもいいかなと……宿題としてやってもいいかなっていうお話をしながらでした。
澁谷
ありがとうございますそうですねおっしゃる通りだと思いますのでこの対談の骨子と合わせて、リストの方も先生方にご協力いただいてちょっと作ろうと思いますありがとうございます。そうしましたら庄司先生いかがでしょうか?
庄司
いや、もう言われちゃったなっていうふうに思いながら聞いてました。ここまで議論してて私が直接Wikipedia書いちゃうとなんかすごい手前味噌な感じするなと思ったので、だとするならば、その素材になるものをとにかくたくさん作って手が届きやすい場所にたくさん公開していくっていうのがまず大事なんだろうなと思います。その意味で今ちょっと話題になってたような気がしますが、文献リストを作ったりとかして、公開していくのが大事だと思います。Amazonでシビックテックってとりあえず日本語で入れてみたら3冊出てきたので、あの稲継先生の本が一番有名なんじゃないかなと思うんですけど元神戸市の松崎さんの本もあり、それと翻訳本が一つ。アメリカの方が書いたものを翻訳したのが1冊で合計3冊あるので、やっぱりこれはしっかり紹介しなきゃなとかですね。論文でもテクノロジーの歴史から見るんだったらこの論文とか、災害についてのエピソードだったらこれ、とかっていうのを整理して示していって、誰かWikipediaに書いてくれと外堀を埋めていく作業をしていきたいなと思いました。
小俣
一般の人はAmazonで調べて結構論文をやっぱり検索するって慣れてなかったりするのでそういったものを挙げてくれてこれを読んだ方がいいとかいうのがあるとすごく助かるなと思います。
庄司
そうですね。
渡辺
あとここで議論した内容をそのままっていうわけにはもちろんいかないでしょうけど、どこかのジャーナルにこの言ったシビックテックの前史なのか、シビックテックの文脈なのかみたいなものを論じたものをパブリッシュして、パブリッシュするってことは要するに第三者の目が入るので、ただの自作自演ではなくなるってことだと思うんですけど、それをWikipediaに掲載できるようにCC BYとかCC BY SAのライセンスとかで公開できるとそれは専門家のレビューを経たソースなので、ーーまるっと持っていってもちょっと記事とは合わない場合もあるので、持って行くのが最適とは限らないですけどーーかなり持ってきやすくなるかなっていうのは思いました。
庄司
なるほど。CCバイにするという、そこをまた掘り下げたいですね。
澁谷
なるほど。ありがとうございます。そうですねありがとうございますアカデミア側としての活動としてやはりそのアウトプットを出していくということも貢献としてあるかと思いますまさに渡辺先生がおっしゃった、最後はやっぱり論文っていうのが一番我々としては私やすいと思いますので、そうですねそこに繋げていければと思いますありがとうございます。
予定していた1時間半をオーバーして、でもそれでもまだ他にも聞きたいことがあるような気はするんですけれども時間になりましたので本日はここまでとさせていただければと思います。先生方本日お忙しい中貴重なお時間をいただきましてありがとうございました。またどうぞよろしくお願いいたします。
2. 関連文献
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参考サイト
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文献
- 中俣保志『市民社会とは何か』植村邦彦 https://amzn.asia/d/i9ZehCF
- 中俣保志 道場親信「1960-70年代「市民運動」「住民運動」の歴史的位置中断された「公共性」論議と運動史的文脈をつなぎ直すために」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/57/2/57_2_240/_article 社会学評論 57 (2), 240-258, 2006日本社会学会
- Civic techのさまざまな定義についての簡単なレビューを含む博士論文:McCord, Curtis(2022) Civic Participation and Democratic Experience: Civic Tech in Toronto.https://hdl.handle.net/1807/125464
- オープン化の運動についての歴史:David Bollier (2008) ”Viral Spiral:How the commoners built a digital republic of their own. The New Press. http://www.viralspiral.cc/sites/default/files/ViralSpiral.pdf”(著者は学者ではなくジャーナリスト、アクティビスト)
- オープン化を推奨する根拠になるような考え方としての集合知など:Benkler, Yochai (2006). The Wealth of Networks: How social production transforms markets and freedom. Yale University Press. https://cyber.harvard.edu/wealth_of_networks/Download_PDFs_of_the_book
- Page, Scott (2008). The Difference: How the power of diversity creates better groups, firms, schools, and societies (New Edition). Princeton University Press. スコット・ペイジ『「多様な意見」はなぜ正しいのか:衆愚が集合知に変わるとき』(水谷淳訳)日経BP.
- Surowiecki, James (2005). The Wisdom of Crowds: Why the many are smarter than the few and how collective wisdom shapes business, economies, societies and nation. Anchor. ジェームズ・スロウィッキー(2009) 『「みんなの意見」は案外正しい』(小高尚子訳)角川文庫. ※Benklerの議論は分散コンピューティングのような資源を共有しているだけで「知恵」を出し合わないコラボレーションも含めた現象の評価を事例とその背景要因についての考察を中心に行っているもの。言い方を変えると、今日であればシェアリングエコノミーと呼ばれる類の活動も射程に入っている。また、社会秩序などへの含意についてかなり紙幅を割いて考察している。ペイジは集合知の優越性について数理モデルを立てて考察するもの。スロウィッキーは興味深い事例の紹介と、集合知がどうして有効なのかについて簡単な考察が中心。(スロウィッキーは学者ではなく、本書は学術書ではない。)
- 稲継 裕昭編著, 鈴木まなみ・福島健一郎・小俣博司・藤井靖史(2018)『シビックテック: ICTを使って地域課題を自分たちで解決する』勁草書房 .